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風の強い月夜。
明かりのない街道に、黒衣の男が立っている。
夜闇に溶けるような黒髪を風にたなびかせ、ガラス玉のような漆黒の瞳は、冷たい輝きを放ちながら、前を見据えている。
びゅお、とひときわ強い風がかすめていき、彼は面倒くさげに顔を俯けてやり過ごした。
やがて、風の弱まったところで、面倒くさげな色そのままに、もう一度、顔を上げる。変わらない風景を瞳に収める。
それからため息をひとつ、風に攫わせてから、ようやく男は歩くことをはじめた。
重そうな黒い鞄から、がちゃがちゃ、と騒々しい音が漏れる。
不意に、男は振り返った。
視線を感じて振り返った。瞳に剣呑な光が灯る。
「にゃぁ」
猫だった。
男は釘付けになった。
・・・・・・・・・・・。
「で、例の、息子さんは、自室に隔離してある、ということですね。」
「はい。あ、あの・・・・。」
所変わり、それから20分程後のこと。
男はある豪奢な屋敷の中へ招かれていた。うろたえて、落ち着きをなくしている貴婦人に、男は、見るものが安らぐような、そんな優しい笑みを湛えて優しく諭す。
「大丈夫です・・。息子さんに憑いた悪魔は、僕が必ず、払ってみせますから。」
芯のある声に、貴婦人はほ、と息をついた。
「ありがとうございます・・。さぁ、この部屋です。」
頑丈そうな扉。
その前に立ち、男はひとつ、深呼吸をする。
「それでは・・・。儀式が終わるまで、決して中に入らないよう、お願いします。安全の保障ができませんから。」
「わかりました。よろしく、おねがいします・・・。」
最後にもうひとつ、笑みを作って貴婦人に微笑みかけると、男は、その分厚い扉へと、這入っていった。
草木も眠る時刻。照明の付いていない部屋は、カーテンすら閉ざされて、ほとんど完全な闇だった。
暗闇の中、何か生き物の息遣いだけが聞こえる。
「誰かいるかー。」
投げやりに呼びかけて、男はガサガサと持ってきた鞄を漁る。
それから、えい、と取り出したのは、古びたアンティークの人形だった。暗闇では何がなんだかわからないが、金髪碧眼のゴスロリっぽい人形だ。
何故そんなものを仕事場にまで携帯しているのか。
それは、彼が少女趣味だから―
ではない。
「母さん、花子はここに置いとくぜ。」
そう言って、手探りで見つけた机っぽいところに乗せる。
母親に言われたのだ。
『この子を、私だと思って可愛がってね・・・』
それで本当に、花子と名づけたこの人形を母親だと思うことにした彼だった。
母親に内緒で『仕事』をすると、怒られるのだ。怒った母親はシャレにならない。
・・・さて、これで手はずは整った。
「出て来いよ、取って食やしないからさ。」
目がまだ暗順応していなくて、緑色の残像だけが辛うじて見えている。順応したところで、人間が何かを見るためには光があまりに足りないとも思う。
気配だけを頼りに、男はゆっくりと広さのある部屋を横断していく。
「ぅあっ」
「お、そこか。」
幼さの残る声がした。言葉ですらない、鳴き声のような声だ。まるで悲鳴のようだが、実際悲鳴なのだろう。歩み寄るほど向こうも逃げていくようだが、いくら広いとはいえ、この空間にも限りがある。
じわじわと、ゆっくりと、距離を縮めていく。
「ルーブライト?何にそんなに怯えてるんだ?おにーさんに教えてみな。」
偽善者ぶった優しい口調で、更に距離を詰めていく。
そうしていくうちに、なんとなく、空間に圧迫感を感じた気がした。
壁が近い。
暗闇の中。男より一回りくらい、小さい少年は、ひどく怯えるようで、神経質にきょろきょろと視線を彷徨わせて後退を続ける。
何も見えやしないのに。
恐慌(パニック)状態に陥ったようになって、少年、ルーブライトは斜め右前方へ、駆け出そうとした。
しかし、それは。
「つかまえた。」
がしり、と。
左腕に、自分のものでない体温を感じる結果となった。
強過ぎない、けれど逃れられない圧力。
「やれやれ。」
男は、既に一仕事終えたような疲労の濃いため息をつく。
「さて、始めるか・・・。面倒くさい。」
彼の職業は悪魔祓い師だ。郊外にこじんまりとした事務所のようなものを構えている。
けれど、悪魔なんてモノは存在しない、というのが彼の持論だ。
彼は自分で見たもの、事柄しか信じないからだ。
この仕事を始める前も、始めてからも。
未だかつて、悪魔というモノは、見たことがない。
「俺の顔、見えるか?」
カーテンを開け放し、月光を部屋に引き入れたところで、男は少年に、ほとんど触れそうなほど、顔を近づけた。
その距離で、視線をかち合わせる。
瞳孔を大きくした瞳が、怯えるように揺れている。
「・・・なるほど。」
にや、と男はその距離のままで、意地悪く笑んだ。
「・・・あのおばさん、虫も殺さねーツラして、結構エグい性格してんだな。
でも、お前もお前だ。相性悪いんじゃねーの?壊れるまで我慢して、さ。」
視線を合わせたままで、男は少し、顔を遠ざける。それから、少年の頭をわしづかみにして。
「正直、お前ら家族の問題に、俺が首突っ込むわけにもいかねーし。でもなんとかしねーと報酬もらえんし。
そーゆーわけだからよ。」
ぐらぐら、少年の頭を揺らす。
「怯えるのをやめろ。恐れるのをやめろ。お前は何も感じない。何をされても、何を言われても。
救いを求めるな。諦めろ。受け入れちまえ。そーゆーもんだ、って。
その方が楽だぜ?」
無遠慮な視線が少年の瞳を貫く。がたがたがた、と体が震える。
何かが、変わっていく。
「あ・・・あぁ・・・・ああああ・・・!!!」
「おっけい?」
ぱ、と手を離すと、少年の体は、重力に逆らえないように、ぺたり、と崩れた。
「ルーブライト。」
「はい。」
「もう大丈夫だな?」
「はい。」
よい返事だ、と、満足げに笑うと、男は月明かりの中で自分の人形を見つけ、それを手に取る。
「仕事は以上だ、母さん。」
そして鞄にしまうと、重い扉を開いて、部屋を出て行った。
心を読み、記憶を漁り、改ざんし、操作する。
それが、彼の生まれ持った能力だった。魔法使いの家系ですらない彼が何故そのような能力を持っているのかはわからない。
それどころか、それが当たり前だと思っていた。
もっとも、その自分の「特殊さ」に、まさに自分の能力でもって知ることに時間はそれほどかからなかったけれど。
そんな力を持って生まれて。
はっきり言っていい気分だった。
心を持たない人間はいない。
そして、それを思いのままに操れる能力。
錯覚に陥る。人間を、支配したような。
そうやって思い上がる度に、彼を叱り飛ばしたのが母親だった。
折角私が生んでやった能力、もっと有効に活用しなさい・・・
・・・言葉の意味はよくわからなかったが、とにかくその剣幕が怖かったのと、彼は彼なりにそんな母親を愛していたので、それで思い切り道を踏み外すことはなかったものの。
結局、こんな詐欺まがいの仕事に活用していることを知ったら、天国の母親は何と言うのだろう。
けれど、彼は気にしない。
母親が絶対正義であるとは思っていないし、今の母親代わりであるところの人形、花子は彼に何も言わないのだ。
だから大丈夫だろうと思っている。
さて。
彼は、彼の事務所で大きなあくびをひとつ、した。
夜勤なんかするからだった。
寝不足は体に悪いから睡眠を取ろうとしたところで、完全昼型人間の彼は、空が明るいと眠れない。
「ま、結構報酬弾んでくれたし。」
めでたしめでたし。と、のんきに呟く。
そんなこんなで、この悪魔祓いの事務所に持ち込まれる依頼は、結局悪魔なんてどこにも関係していなくて。
単純に、心の問題なのだった。
周囲の勝手な思い込みだったり、あるいは今回同様、人格が破綻した故の奇怪な行動が、悪魔に由来しているかのように思われているだけだ。
彼に、壊れたココロを修復した経験はない。環境が変わらないなら、いくら直しても結果は同じだろうから。
だから。感覚を麻痺させて、傷をなかったことにして。直ったように見せかけるのが、彼のやり方。
それをすると、どうしてもその後その人は人形のようになってしまうことが多いのだけれど・・・。
それで苦情が来たことはない。
だから問題ない。
記憶をいじるわけじゃない。感情が浮かびづらくなるだけで。
周囲にとって、『憑かれている』時より遥かにマシであるはずだ。
「じゃー、花子、俺メシ買ってくるから。」
番頼むな、と今は事務所の看板娘をやっている人形に話しかけて、事務所の薄い扉を開こうとした時。
「うぉっ!?」
「・・・おっと。」
こちらへ入ってくる人とぶつかりそうになった。
・・・外からこちらへ入ってくる、人。つまり。
取り立てられるような借金はないし家賃は払ったばかりだし、訪れるような友人もいない。
でなければセールスかあるいは・・・
客。
「あー、なにか入用ですか?」
即座に営業スマイルを取り繕う。
「こちら、ジルノート様の事務所でよろしいですか?」
「・・・はぁ・・・。依頼の方ですか?」
「話、させていただいてもよろしいでしょうか。」
「・・・どうぞ。」
一瞬迷ったが、買い物は後にすることにして、彼は客を事務所に通すことにした。
客は、彼・・・ジルノートより4、5歳年上だろうと思われる、紳士ぽい落ち着いた男だった。
ゆるやかな淡い銀色の髪は大体肩甲骨の辺りまで伸ばしてあり、妙にそれらしく片メガネをしている。
大人の男、という雰囲気だ。端正な顔つきをしていて、立ち振る舞いが人格者、という感じで。
非の打ち所が、ない。
「それで、今回はどのような件で?」
同じ男としてちょっとジェラシーを感じつつも、仕事にいそしむジルノートだった。
「あらかじめ断っておきますが、私は患者となんらか関係があるわけでは、ありません。
私は今日、仲介の役割でもって貴方の事務所へ足を運んだことを、了解していただきたい。」
「・・・仲介、ですか。」
そうです、と客はうなずく。
「依頼人の大抵は、患者の親族だそうですね。けれど、今回の患者には適当な親族がいない。」
「身寄りがないのですか?」
「患者が自ら殺害したのです。」
ジルノートは、息を呑んだ。これは、重症だ。
けれど、このケースは初めてではない。稀ではあるが在る話だ。
人格が破綻してしまえば、犯罪だろうがなんだろうが、そんな分別が付かなくなるのは、ありえない話では、全くない。
それに、人殺しであろうと、ジルノートにはあまり関係のない話だ。
その凶刃がこちらに届く前に、心を支配し、殺意を、敵意を奪ってしまえばよいのだから。
「それで、仲介ですか。」
「はい。報酬は、近隣の住民の方が少しずつ出しあうことになっています。
具体的な金額は只今交渉中、というところですか。」
客は、紳士的な笑みを浮かべる。
「それで、いかがでしょう。詳しい話を、聞いていただけますか。」
ジルノートは、ちらり、と人形の花子を盗み見た。
相変わらず、笑いもしないで、棚の上に鎮座している。
「・・・まあ、そうですね。聞かせてください。」
花子は何も言わないし。
ありがとうございます、とその客はにっこりと笑った。
患者は、ここから少し離れた田舎町に住んでいた、30代後半ぐらいの男だそうだ。
妻と娘と、親である老夫婦と暮らしていた。
一週間くらい前までは。
理由は先ほど、客が言っていた通りだ。
なんでも、『ある日突然、豹変した』とか。
それが2,3週間前。近隣の住民による情報だが、生前の親族から聞いた情報でもあるらしいから、大間違いだということもないだろう。
『豹変する』、前は温厚な人物だったそうだが、今では見る影もなく、敵意を撒き散らし、奇声を発し、彼を殺人の容疑で逮捕し、拘留している警察も、彼の奇異な行動に手を焼いているらしい。
程なく、悪魔が憑いたのでは、と噂になった。
今回の客に仲介を依頼したのは、近隣の住民たち。警察も、それを黙認しているとか。
「それでは今、患者は留置所にいることになりますね。」
「そうです。一家殺害の容疑、で。」
・・・正直、面倒だ。『仕事』はできるなら1人で・・・花子は例外だが・・・でやりたい。
けれど、あまり選り好んでもいられない。
この仕事は、信頼が大切だ。
『腕が確かだということ』を、そして『悪魔が存在すること』を、仕事をこなすことで証明しなくてはいけないのだ。
しかもジルノートは駆け出しである。
好き嫌いで仕事を選んでいては、その内路頭を彷徨うことになるかも知れない・・・。
「わかりました。とりあえず、実際に患者の様子を見なければなんとも言えませんが、最大限の力を尽くすことを約束しましょう。」
「ありがとうございます。こちら、患者が拘留されている留置所の住所、です。」
客人が胸ポケットから取り出した小さな紙を、ジルノートは慎重に受け取る。
「確かに、受け取りました。
・・・・・・あぁ、いけない、僕としたことが。貴方のお名前をお聞きしていませんでしたね。」
几帳面な文面に目を通している時、ジルノートはふと思い出した。すると、その客は、ふ、と笑って、す、と立ち上がり、恭しく一礼をした。
長身の男に見下ろされる。ジルノートも立ち上がるべきかと迷ったが、なぜか体が動かない。
妙な圧迫感の中で、静かに、見上げている。
銀髪の男は笑う。
「シルヴィア・クレイダムと申します。どうか、お見知りおきを。」
スプーンでシリアルを掬いながら、ジルノートは小さなため息をついた。
睡眠不足で目がしぱしぱする。
まあ、今回の仕事は夜勤になりそうにないからまだいい。
夜勤も、雰囲気作りには結構重要だったりするのだがいかんせん昼型人間だ。疲れが取れないので極力避けたい。
さて、お腹を満たして更に眠くなったところで、ジルノートは花子を取り上げた。これから仕事だ。
といっても祓いに行くのではなく、あくまで下見で。
何せ相手は警察組織にご厄介になっているのだから、そこのところをきちんとしておかなくてはならない。
依頼者、仲介者のメンツを保つためにも。
そういうわけで。
「悪魔祓い師??」
しょっぱなから思い切り胡散臭げに見られた。
仕方ない。悪魔祓い師を語る詐欺師は多い。
ジルノートだって本物ではないのだ。
「シルヴィア氏の仲介を受けてきたのですが・・・。責任者とお話はできますか」
「ん・・・・。」
シルヴィアの名前を出すと、難しい顔で唸って、内線をつなぐ。やはり、警察も黙認しているというのは本当だったようだ。
受付が受話器の向こうと何か会話を交わすのを、ジルノートは大人しく待っている。
それにしても、ここは・・・。あまり、お世話になりたくないところだ。
職業柄、下手をすればお世話にならないとも限らないが。
すっかり気が滅入ってしまって、ジルノートは小さくため息を漏らす。
「おい。」
「はい。」
ジルノートは1人で瞠目して密かに驚いた表情をした。
呼ばれたのかと思ったら別の人だった。
危なく返事をするところだった・・・。
本当に呼ばれたのは、30代に手が届くかどうかという女性で、どうやらここの職員らしい。
1人でも生きていけそうな、気の強そうな女性だ。
「この人を来客室へ案内してくれ。」
「わかりました。
・・・こちらへどうぞ。」
そこから展開されるのはいわゆる大人の会話というヤツで、なんら面白みはない。
結局患者と面会させてはくれなかったし(黙認してはもらえても、表立って協力してくれるわけではないのだろう)、結局「祓い」を行う具体的な日時の交渉だけで終わってしまった。
次の日。
「・・・よく寝た・・・。」
カーテンを開け、朝の光に目を眇めた後、ジルノートは大きく伸びをした。
日没と共に眠りについたから、睡眠は十分だ。
「さて・・・。」
いつもの黒衣に着替えて、時計を確認する。
「一仕事、行ってきますか。花子?」
留置所にて、まず身体検査を受ける。
かばんの中身をテーブルの上に開けられて、色々、諸注意などを受けるジルノートだった。
銀の十字架や燭台、ろうそくなどがごろごろする中、ひとつアンティークの少女の人形が異彩を放っているが、職員たちは、何か聞きたそうな顔をするが何も聞いてこない。
「警察としては。」
値踏みするように、こちらを伺うのは、昨日案内をしてくれた女性だ。
「悪魔という存在を大っぴらに認めることはできないの。
けれど容疑者はあの有様だわ。貴方が詐欺師だったところで、彼が自ら容疑を認めれば、それでいいの。」
貴方にそれが、できるのかしら?
言葉には出さない、その意思を、ジルノートは確かに受け取った。
「なるほど、患者の正気を取り戻した上で、罪を認めさせれば、いいんですね。」
「貴方に、それができるの?」
今度は、その女性はそれを隠すことをしなかった。
疑いの眼差しは慣れている。
ジルノートですら、お目にかかったことのない存在を、信じられないとしても不思議はない。
「それが、仕事ですから。」
「・・・私は、貴方を信用していないの。」
「・・・・。」
「覚悟、することね。貴方がもし、失敗したら。そのままここで暮らすことになるかもしれないわよ。」
「・・・脅し、ですか。」
穏やかでない話だ。だが、なるほど。
この女性の言うことも、なくはないか・・・。
「その時の容疑は、詐欺師、というところですね。でも、どうでしょう。
仕事が成功するか否かは、神に任せたところもありますからね。」
知らず、ジルノートは底冷えのするような笑みを浮かべていた。
自分が自分で可笑しい。
神、だって?
「・・・弟。」
「はい?」
急に話題が転換して、ジルノートは面食らう。
女は睨むようにジルノートを見ている。
「私の弟も、悪魔憑きだと言われたことがあるわ。」
「・・・・・。」
「私たちは、貴方みたいな人に依頼したの。何人もね。
でも、弟は治らなかった。
仕事料をふんだくるだけふんだくって。弟はそれでも治らなかった!!」
「・・・・。」
言葉に、熱がこもる。彼女の同僚は何も言わなかった。
こちらを見ようともせず、けれど、どこも見ていなかった。
彼女の怒りを、受け止めるように、受け流すようにしている。
「・・・それで。彼は、今?」
「もういないわ。死んだから。」
「・・・・そうですか。では。」
ジルノートは、テーブルの上の人形、花子を手にとって、目線の高さまで持ち上げると、その作り物の碧眼をじっと見つめた。
不審げな視線がいくつか刺さるが、気にしない。
「彼に、悪魔など憑いていなかったのでしょうね。」
少年が、1人ふらふらと歩いている。
生気はなく、唯あるがままを映す瞳。
「こんにちは。ルーブライト。」
立ちふさがったのは、1人の男だった。ルーブライトは、そろそろと頭を上げて、その顔を見上げた。
優しい、笑みが返ってきた。
「こんにちは。」
その唇の動きを見つめながら、挨拶を返す。
白い、大きな手が少年の頭を撫でた。よし、よし、と。
ルーブライトはじっと、ただそれを受け止めている。
「可哀想に。」
不意に、男が呟いた。
哀れむような、声だった。
「心を、封じられてしまったのですね。」
ぱちぱち、と瞬きをするルーブライト。
この人は、何を言っているのだろう。
おかしな人。心って、何?
「返してあげましょう、心を。ジルノートにも、全く、困ったものです。」
びり、と、電流が流れるような感覚が起こった。
不意に、湧いてきた。
胸の奥が、頭のナカが、攪拌されていく錯覚。
「・・・ぃ゛ッ・・・・!!」
鈍く、鋭く、冷たく、熱い痛みがどこともなく走る。
どこまでも走る。
焼けるように熱かった。焼けるように冷たかった。
頭を撫でる暖かな手はいつの間にかなくなっていて、こちらを見ていない一対の瞳が、どこか遠くを捉えて冷たく光っている。
「本当に。
人間の、分際で・・・」
どこまでも、冷えた声が地面に落ちる。
倒れて動けないまま、それが堕ちて壊れる音を、ルーブライトは聞いていた。
がしゃん、と。
壊れる音を、聞いていた。
何故助けない。この音が聞こえないのか?
壊れているのに。
コワレテイルノニ。
脆く儚く崩れ去る音。それは悲鳴と同じモノで、
誰かの助けを呼ぶ、音なのに。
氷のような銀色の髪、氷のような銀色の瞳。とてもとても冷えた表情。
この男には、聞こえないのか?
予想はしていたことだが、容易に想像のついたことだが、今回の仕事は見張りつきで、ということになった。
ヘタに要求を受け入れないでいると向こうの不信感を募りかねないので、渋々ではあるがジルノートはそれを呑んだ。
さて、花子を連れて(とうとう、誰もそれについて突っ込む者はいなかった。いかにも聞きたそうな顔はしていたのだが。)、患者のもとへとやってくる。
昨日はなんだかんだ言って面会させてもらえなかったから、今日が初顔合わせということになる。
「えっと・・・。ブライアンさん、でしたっけ?」
ありがちな名前だった。
立ち会い人がいるために、地で話せないのが残念だった。もとい、面倒だった。
隅でうずくまっているその姿を見とめ、人形、花子を適当な場所へ置く。
「それじゃあ、お母さん・・・。」
言いかけて、ふ、と顔を上げる。何かが動く、気配を感じて。
その先で、目が合った。
狂気に血走った目と。
膨大な敵意。膨大な殺意。
「・・・・。」
そりゃあ、逃げられるよりはやりやすいが・・・・。
これは、なんだろう。
びりびり、と空気に緊張が走る。
「・・・・落ち着けよ・・・。」
合った瞳から、心を読み出す。
緊張からか、その作業はいつになく慎重になっていた。
―コロス―
「・・・・!?」
コロス コロス
コロス コロス
コロス コロス コロス
コロス
イヤダ イヤダ
タスケテ タスケテ
トメテ イヤダ コロスナ
コワイ シニタイ
シネ
ダレカ
タスケテ!!
ホロビロ
殺す殺す殺す殺
ス殺スコロす
コろす死死死死死死し死
死死死シ死死死死死死死死死死死死死死死死死死
死死死死死し死死死死シ死死死死死シシシシシシ
死シシシシシシシ死シシシシシ死シシシシシしシシシシシシシ死シシシしシシシシシシシ死シシシシシシししシしししし死しししししししししし
ししししシし
ししししシしし
し死しししシししししし死しししししし
ししシしし死ししシしししし死しししし!!!!!!!!
ダメだ
むいしきに、からだをひいた。
それは、ほんのうだったかも、しれない。
しぐなるのように、こどうがなる。
こえが
じるのーとにしか、きこえないこえが
這
入っ
てく
る!!!!
ジルノートはよろめいた。
ひどい耳鳴りがする
頭が痛い
容量(キャパシティ)オーバーだった。
一度に2つ
の
心な んて
扱えな
・・・
・・・・・
・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・2つ?
おおよそ人間のものとは思えないスピードで、ブライアンはこちらに飛び掛ってきた。
鉤爪のような形の右手。振り上げられていて。
何者かの声が走った。緩慢な動作で空気が動いた。
悪魔憑きの男は、それよりも速かった。
狂気に血走った瞳は、脇目もふらず、こちらを捉えている。
睨むように、哂うように
こちらを見ている。
コ
ロ
ス
ぐ あぁん! !
と、激しい打撃音、衝撃音とも取れる音と共に、緩慢だった時の流れは元のスピードを取り戻していた。
「・・・・・え?」
けれどその次の刹那には、今度は時は止まったかのようになった。打ち沈められたかのように音はなく。
時は止まり、静寂が流れている。
ジルノートは2、3度、瞬きをした。
目は釘付けになっている。
どこから現れたのか、いつ現れたのか。
フリルのあしらわれたロングスカートの裾をつかみ、臨戦態勢でジルノートを守るように、盾となるように立っている少女。
まぶしいほどの金髪。雪のように白い肌。黒を基調としたゴスロリっぽいファッション。
その眼前に、ブライアンは倒れている。
「・・・・・。」
飛び掛る男に、突如立ちふさがり華麗な回し蹴りをキメた少女は、くるり、とジルノートを振り返る。
その瞳は、深い、深い青色だった。
そして。
「こ・・・・の馬鹿息子ッ!!!!」
ゴッ
「だから言ったじゃない何度も言ったじゃない!よりにもよってこんな仕事って馬鹿じゃないの!?
命は大事にしなさいよ!!お前の力は有効に活用しなさいって!!
どれだけあたしがハラハラしてたと思ってるのまったくもう!
お前は早死にするつもりっ!?!?」
ジルノートの脳天に踵落としをくらわせて、少女は怒涛のようにわめき散らした。
全く状況についていけていない周りをよそに、1人でヒートアップしている。
「・・・・は・・・・、花子・・・・?」
まさか、としどろもどろになりながらジルノートは頑張ってそれだけ言葉を搾り出した。
が。思い切りヒールキックを食らう結果となる。
「何が花子よ!私はクリスティアっていう素敵な名前があるのよ!
なによ花子って!!そのボキャブラリーは一体どこで仕入れてきたのよ!?
私はもうずっとそれをツッコミたくてツッコミたくてツッコミたくて!!!」
そして、今日!やっとツッコむことができた!!!
・・・・らしい。
「・・・じゃあ聞くけど、有効活用ってなんだよ。」
何がなんだかわからないが、少女の言葉がひと段落ついたところで、ジルノートは胡乱げな視線を向ける。
「・・・え?」
「確かに母さんは、ずっと俺に言ってきたさ。『能力を有効に使え』。
じゃあ、なにをやったら有効なんだよ。何回聞いても母さんは誤魔化してばっかりだったじゃないか・・・!!」
「そ、それは・・・・。」
ジルノートの思わぬ巻き返しに、少女改め花子もといクリスティアはたじ、とあとずさる。
「わ、私はあくまで母代理であってあなたのお母さんじゃないもーん・・・。」
「逃げやがった!!!」
「とにかく。」
話題を振り切るように、少女は真剣な表情を作った。
「ただの人形であるはずの私が出てきたのは、今がジルノート君人生過去最大のピンチ、だからなのよ。」
「・・・・。」
ふらり、とブライアンは立ち上がる。クリスティアはそれに向かい合うように、ジルノートをかばうようにする。
「そうだ・・・。なんなんだあいつ。意識が二つあって・・・・。」
「なにって。」
クリスティアは視線だけを、ジルノートに送った。
「悪魔憑きに、決まってるじゃない。」
「・・・は?」
「母親としてはこんな危険な仕事、息子にさせるわけにはいかないけれど・・・。
乗りかかった船だわ。仕方ないわ。ジルノート。
彼を、助けてあげなさい。」
「・・・・何言って・・・」
「聞こえたでしょう、彼の悲鳴が。見えたでしょう、彼の叫びが?
それが見えるのが、貴方でしょう、ジルノート。」
「無理だ」
「何故。」
咎めるような光が、クリスティアの瞳に灯る。
けれど、ジルノートはかぶりを振って、無理だ、と繰り返す。
「2つ、だぜ?」
自嘲の笑みを、浮かべて。
「俺は万能じゃないんだ。二つの意識を受け入れて、二つの記憶を操作するなんてマネ、できない。こっちが壊れちまう。」
「おかしいわね。前、やってたじゃない。」
「攻撃的過ぎるんだ、あいつら。」
表面を少し、撫でただけで。噛み付かんばかりにこちらへとむかってくるのだ。意識が。
ひとつは『殺す』と。ひとつは『助けて』と。
傷つけようと、縋ろうと、こちらに向かってくる。
「それは当然だわ。相手は悪魔だもの。」
片方は人間だけどね、と、クリスティアはブライアンに飛び掛り。
あっという間に、組み伏してしまった。
その鮮やかさは、警察職員も感嘆ものだった。
ところで彼らはさっきからおろおろするばかりで、何の役にも立っていない。
「さあ。私が抑えておくから。二人が無理なら、1人ずつやればいいわ。
頑張って。でも無理はしないで。
貴方が壊れたり、しないように。」
「・・・・・。」
恐る恐る、ジルノートは歩み寄る。
歯をむき出しにして、こちらを威嚇するブライアン。
彼に憑依した、悪魔に。
『助けて!!!!!!!!!!』
まず食らいついてきた意識をなだめる。
「助けて、やるから・・・大人しく、してな」
苦しみを感じる心を、麻痺させる。びりびり、と、迫ってくる悲鳴は凶器のようで、彼は目を眇めた。
・・・痛い。
感覚を研ぎ澄ませるジルノート。すると突如、縋る声に絡まるようにして、もうひとつの・・・膨大な悪意が、彼の精神に食らいついた。
「待っ・・・!」
痛い
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い!!!
二つ分の悲鳴、狂喜に、押しつぶされそうになる。
跪くようにして、頭を抱えて耐える。
一方を操作しようとすれば、もう一方がそれの邪魔をする。
あと少し。あと少しなのに・・・・!!
ふ、と、ジルノートの目元に何かが触れた。
白い、クリスティアの指。その時、耐え切れなかったように、つ・・・と涙が零れた。
赤い唇が「ごめんね」と動く。
そして。
ゴッ!!!!
と、ひときわ鈍い音がした・・・・。
・・・・・・・・・。
ジルノートにかかる負担が、小さくなる。
・・・・・・・・・。
「初めから、こうすればよかったのだわ・・・。」
ブライアンが白目をむいている。
二つの意識のうちの一方。人間である、本来のブライアンの意識は、只今眠りに落ちたようだった。
「患者に何てことしやがる。」
「あら、余裕になってきたんじゃない?」
「・・・・・。」
ひとつは人間、ひとつは悪魔で。
人間のほうが眠りについたのなら。
残ったのは、悪魔のほうだ。
「おい花子。」
「クリスティアよ。」
「具体的には、どうしたらいい。」
「シカトかよ。」
零れたままだった涙をぬぐってやって、クリスティアはブライアンを見下ろす。
「そうね。私に聞かないでと答えるしかないわ。」
「・・・・。」
アテにならん。
もう一度、向かい合う。
どこまでも攻撃的な意識が、そこにあった。
(そもそも、どっから来たんだコイツ・・・)
―闇・・・―
「!!!!!!」
(答えた・・・!!)
―オ前ハ 珍シイ・・・・稀有ナル人間。
ダガ 死ネ。
闇ヲ 知レ。
堕チテ往ケ 深イ 闇ヘ・・・!―
「楽しそう、だな、お前・・・」
今までにない、精神構造。
処理が追いつかない。けれど、探るように触れていく。
「堕ちなくても知ってるさ。闇ぐらい。
だから何だって感じだが・・・。知ってるだけで、受け容れたことはないし。
とりあえず、お前、出て行けよ」
―何故?―
「・・・?」
―苦シイノニ? 殺シタクテ殺シタクテ殺シタクテ タマラナイノニ!!
何故 我ニ 指図ヲスル!! 人間!!
憎イ! 憎イ!! 憎イ!!!!!―
「あぁ、理解は、できないや・・・。やっぱり。
・・・でも。」
―何ヲ―――――
「考えてることは、わかるぜ。だったら、簡単だ。」
―・・・・何?―
「お前は、ここにいてはいけない。
帰るんだ。」
―・・・・・・・。―
それは、ジルノートが1人で何かを喋っているだけのようにしか見えない。
けれど。
男の痙攣が止まり。
うめき声が止み。
―闇ノ中へ、カ・・・?―
「・・・いや。」
悲鳴はもう、聞こえない。
―・・・・・。―
「お前の望むところへ。」
―・・・・・・・・・・・。―
「思い出せた、だろ?」
霞ンデイタ 視界 ガ 開ケタ ヨウナ 感覚。
ソウダ。
何故、忘レテイタ?
・・・・・・・・・・・・・・。
「・・・・・・・・・・・・。」
「終わりました?」
「・・・いや。まだだな。」
ぺしぺし、と、ブライアンの頬を叩くジルノート。
まだ、終わっていない。
アフターケアが、まだ。
愛する家族を、殺してしまった男に。
「悲観したとしても、絶望は、しない。お前は・・・、辛くても・・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・あぁ、お前、これから、どうするんだよ・・・・。」
ジルノートは、悲愴な声を上げて、うなだれた。
人間の体にただひとつ、残った、人間の意識。
その中に、おぼろげながらも・・・存在している、家族殺しの記憶。
望まない殺しの記憶。
忘れさせることもできるが。
可能だが・・・、そうすればどうなると、いうのだろう。
彼を迎える家族はいないのだ。
何より、警察組織が彼を逃さないだろう。
だったら、記憶は、あった方が。
傷つきながら潜った意識の残滓が、まだこびりついたようにジルノートの中に在るようだった。
苦しくて、怖くて。
その痛みに、涙を耐えることができなかった。
「・・・お疲れ様でした・・・。
・・・大丈夫ですか?」
まだめそめそしているジルノートに、職員が心配そうに声をかける。
いい大人が、これではあまりに恥ずかしいが、どうしても止んでくれないのだった。
「お気になさらず・・・。それで、彼は?」
「・・・すっかり別人のようです。確かに、家族を殺したのは自分だと。」
「そうですか・・・。やはり、罪に問われるでしょうね。」
「・・・我々が、悪魔の存在を認めるわけにはいかないですからね。
・・・しかし・・・・。」
「犯罪を悪魔の所為にできるなら、世の犯罪者たちは言い逃れし放題だわ。
仕方ないのよ。」
「・・・は、はぁ・・・・。」
(・・・彼女は、魔具ですか?)
(・・・さあ。)
・・・クリスティアについて、もっと知らなければいけないようだ。
「で、報酬のことだけれど。」
「意外とがめついな花子。」
「クリスティアよ!」
「お疲れ様でした、ジルノート様。」
ふ、と静かな声に、全員が振り返る。
銀色の髪に、銀色の瞳。紳士ぽい片メガネ。
優しげな笑みを湛えた、シルヴィアが立っていた。
「その御様子だと、無事に済んだようですね。」
「・・・・・・・。」
「これが今回の報酬です。」
シルヴィアが差し出した茶封筒を、受け取る。
・・・現金払いか。
「さすがの腕前です。これからも、ご贔屓にしていただけると、有り難いです。
それでは・・・。」
「・・・・待ちなさいよ。」
くるり、と背を向けたシルヴィアを、クリスティアが呼び止めた。
「・・・花子?」
「・・・・なんでしょう?」
振り返らず、シルヴィアは声だけを返す。
クリスティアは何か言いたそうだったが、思考するように目を伏せた後、ふい、と顔をそらした。
「・・・・・・・いえ・・・。なんでも、ないわ。」
「そうですか。ではこれで。」
去る後姿を見送る一同。
「・・・私たちも、帰りましょう。休んだほうがいいわ。ジルノート。
いつまでも泣いてないで。」
「・・・はいはい・・・。」
いい加減、泣きすぎだ。
帰ったらまず、シャワーを浴びよう。
「ひとつだけ、いいかしら。」
「はい?」
弟をなくしたという、あの女性職員だった。
「貴方は、何者なの?」
「・・・・・。」
「悪魔を祓ったというのは・・・わかったけれど・・・・。
心とか、意識とか・・・・。」
「人間ですよ。悪魔祓いをメシの種にしている。」
遮るように、ジルノートは、笑った。
「見えませんか?」
自嘲気味に、哂った。
「なあ、花子。」
「クリスティアよ。」
「お前、人形には戻らないのか?」
「シカトはもうええわ!!」
「・・・うわぁ、どこの言葉だよ・・・。」
それを関西弁と呼ぶことを、ジルノートは知らない。
花子という単語は知っていても。
「言わなかったかしら?言わなかったわね。
私は、ジルノートを守ることを、命令されているのよ。
貴方が、本当に1人で自分を守れなくなった時からという契約で。
だから・・・。貴方が私をいつも仕事に連れて行ってくれたのは、正解だったわね。」
「母さんに内緒で仕事すると後が怖いからな。」
「・・・理由がそれって、どうなのよ・・・。
・・・いいえ、文句は言わないわ。結果が全てよ。今日守れたんだから、それでいいわ。
いいことにしちゃいましょう。」
「・・・。」
文句はあるらしい。
でも、そんなことをいわれてもジルノートは困る。
「でも、貴方・・・。荒稼ぎをするものだから、気が気じゃなかったわ。変な名前は付けるし。
いつかビシッと、説教のひとつでもくれてやろうと常々。変な名前は付けるし。」
「そんなに花子がイヤか。」
「たりまえじゃアホー!!」
「・・・・可愛いのにな。」
「・・・・・・。」
「花のように愛らしい子で、花子なんだぜ。何が気に入らないんだ?
それに、俺は個人的に「co(こ)」という響きが好きなんだ」
「・・・・・・ココアとか?」
「わかってるじゃんか。」
「わからんわ!!」
頭をはたかれた。
「ところで花子、家帰って風呂沸かしてジェラートでも用意してくれたら俺は嬉しい。」
「早速パシリか私のボディーガード人生!」
「よろしく。」
「しかも拒否権なし!!」
強靭な肺を持つボディーガードだった。
いや、人形に肺があるのかは知らないけれど・・・。
「ちくしょー!!」
美貌台無しの雄たけびをあげて、クリスティアは駆け出した。
「お風呂は熱めですかー!!」
「ぬるめでー」
「承知しましたご子息様ー!!!」
・・・そういえば、クリスティアは母親代わりだったが。ご子息様でよろしいのでしょうか。
ロングスカートの裾を持ち上げて走っていくクリスティアを、ひらひらと見送るジルノート。
さて。肉体的よりまず精神的に疲れた。
静かにゆっくり帰ろう。
はあ。とため息を零す。
干渉した精神が持つ痛みを。ここまで引きずったことは、なかったのに・・・。
他人事だったじゃないか。今までずっと。そしてこれからも。
何故、こんなに痛い。
その時、がさり、と音がして振り返った。
・・・・猫だった。
ジルノートは釘付けになった。
そして、じりじりとあとずさる。
「にゃあ。」
てこてこ、とこちらに歩いてくる。
「いやいやいやいや。」
誰に向けてか静止の声。
・・・クリスティアを帰すべきじゃなかった。
ジルノートは本気で後悔する。
しなやかな体つきの、黒猫だ。目は金色。
いかにも敏捷そうで、飛びつかれたらまず逃げられない。
「にゃぁ。」
「いや、わかったから」
何がわかったというのか。
その時。人の気配を感じて、ジルノートはそちらに気を取られた。
「・・・・あれ。」
見たことのある顔だった。
特別な記憶力をジルノートは有しているわけではないが、それがつい先日のことだったからまだ記憶に残っている。
「えっと・・・。ルーブライト、だったか?」
少年の瞳は、まっすぐジルノートを見つめていて、その瞳にはなんらかの光が宿っている。
それは、とても激しい光だった。
「なんで・・・?」
ちゃんと、心を操作したのだ。しかも、したばかりだ。
何故、こんなにも激しい意志が・・・。
うつろな瞳に激しい感情を宿して、ルーブライトはふらふらとジルノートに歩み寄る。
ただならぬ意志を感じて、ジルノートは逃れるように半歩、後退する。
・・・なんだ?何が起こっている?
「・・・じ、る・・・のぅと・・・さ、ん?」
「・・・な、なんだ・・・?」
心に触れること、・・・を、躊躇う。
悪魔を祓った時の、本物の悪魔を祓った時の痛みが、よみがえるように湧いてくる。
これは錯覚だ、とわかっているけれど。
少年の手が、伸びてくる。
地面でも掻いたのだろうか。爪の間に土がこびりついていて、指先には微かに血がにじんでいて・・・、凍えるように震えている。
どうしよう。逃げようか。
逃げたら追って、くるだろうか。
その感情は、恐怖と近いものだったかもしれない。
あまりに漠然としているのだが、向き合うために力が必要となることはわかる。
どの道ジルノートには辛いことだった。
今、心に触れるには、あまりに疲れすぎていて・・・
「貴公が、手を下すまでもない。」
黒い何かが、突如目の前に現れて、少年を弾き飛ばした。
「・・!?」
深い、低い声だった。
見上げると、視線が合う。
白いというより、青白い肌。黒い髪の合間から、覗く金色の目。
・・・猫のような。
「・・・誰・・・だ?」
「初にお目にかかる。ジルノート・クレイズ殿。
我々・・・・悪魔を救ってくださる、お方。」
「・・・・待ってくれ、意味が。」
なんなんだ、今日は、一体。
丸ごと夢なんじゃないだろうな・・・。
「この者は、あらかた、貴公が施した封を何者かが解いたと思うべきだろう。
貴公でないなら、恐らくそれは人間ではないが・・・・。」
「解いた・・・?・・・悪魔か?」
自らを悪魔と名乗る青年は、ちらりとジルノートを伺う。
その目に、ジルノートは思わず体をすくめた。
すると青年は、恐れなくともよいという風に、けれど酷薄な笑みを浮かべる。
「さあ・・・・。あるいは、天使かもしらないが。」
「・・・・・?」
ジルノートは、少年を見た。突き飛ばされて、倒れている少年を。
もがくように、起き上がろうとしている。
「・・・・。」
「あれについて、構うことはない。貴公は疲弊している。帰って休むが良策だ。」
「・・・・。」
横目で悪魔の様子を伺いつつ、そろり、と歩み寄るジルノート。
「おい、お前・・・。」
少年は。
泣いていた。
嗚咽をあげず、ぼろぼろと涙を零して、壊れたように泣いていた。
そっと、手を差し伸べる。悪魔は何も言わない。
少年は、その手に縋りついた。
そして。
「助けて
、助けて
助けて・・・・!!!!!!」
ワカラナイ。
ココロってなんだ。
アノ人はナニを言っていた?
ワカラナイ。
ワカラナイ。
でも、ひとつ確かなコト。
コノ人が、ボクの前に現れた。
その夜に、痛みが消えたんだ。
苦しみが、消えたんだ。
それダケを、憶えている
だから、オネガイ
もう一度・・・!
声を嗄らして、叫ぶように、泣く。激しい嗚咽が、呼吸すら、妨げる。
・・・きっと、心に触れたなら。
激しすぎる一途な望みが、ジルノートの精神を傷つけるのだろう。
でもそうしなければ少年は、苦しみを忘れることができない。
ずっとずっと、時間をかけなければ。
「殺せばいいものを」
悪魔の声を、聞こえない振りをして。
縋る少年を、優しく撫でてなだめながら。
ジルノートは、重い、ため息をついた。
「ごめんな。俺、ひどいこと言った。なかった振りなんて・・・・。
・・でも、俺には、それしかできないんだよ・・・。」
「う、うぅ・・・!!!」
「休もうぜ。俺も、お前も。とりあえず、うちに来いよ。今ならきっと、風呂が沸いてるし、おやつもある、かもしれない。」
「う、ぁ・・・・・っ!!!」
「おっけい。泣き止んでからでいいよ。」
「・・・・。」
少年をあやすようにしながら、ジルノートは悪魔の視線に顔を上げる。
「お前も来るか?多分、おやつは1人分しかないけど」
「・・・否。ただ、気をつけられよ。貴公はヒトに稀なる能力をお持ちだ。
それ故敵を作りやすい。」
「敵、ねぇ・・・。それで、お前の役回りは、何だ?敵じゃあないのか?」
「是。しかし、馴れ合うつもりはない。
我は、貴公をして、悪魔を救うことを望む。」
「・・・悪魔を、救う?」
「今日のように。」
「・・・。」
「難しいことはない。今日のように、ヒトの肉体より、悪魔を解放する。
それだけだ。」
「・・・へぇ・・・。」
よくわからなかった。それで何故悪魔を救うことになるのか。
でも今は、考えるのが億劫だった。
「・・・そういえば、お前、名前は?」
悪魔と普通に会話しているということについて、深く追求するのは初めから諦めている。
それにしても、悪魔・・・。
この悪魔は、誰か人間に憑いているのだろうか、それとも・・・。
悪魔は妖しい光を放つ金色の目で、ジルノートを窺うように見た。
そして。
「鴉。」
一言、その深い声音で呟いて、そっぽを向く。
「・・・からす?」
「我の名だ。」
「・・・へぇ。」
口の中で繰り返してみる。
「かっこいいな。」
「・・・。」
ジルノートは何故か嬉しそうだ。花子といい、ジルノートはそういう名前が好きなのかもしれない。
「貴公はこれからも、今の生業を続けるつもりか?」
「・・・・・。」
静かになったと思ってルーブライトの顔を覗き込むと、どうやら眠りについたようだった。
「・・・まあ、他に仕事も見つからないしな。花子は何か文句言うかもしれないけど、今のとここれが一番稼げるし・・・。」
「そうか。」
とんとん、とルーブライトの背中を叩いて、その体を背後に回し、いわゆるおんぶの格好で立ち上がると・・・、よろけた。
意外と重かった。
そして、ふらふらとよろめきながら家路に向かう。
「あ、で、鴉はどうするんだっけ・・・」
「心配に及ばない。」
振り返ると、鴉はうっすらと微笑んで・・・、体をく、と曲げた。
そして、そのまま縮んで・・・猫の姿になる。
ジルノートはぎょっとした。
「貴公の元へ、『本当に』悪魔憑きの依頼が来たとき・・・。我は貴公の元へ姿を現そう。
さすがの貴公にも、悪魔の相手は負担がかかりすぎる故、然るべき準備が必要だろう。」
「あ・・・・あぁ。」
よろよろと、ジルノートは後退する。
「では。」
言い残し、美しい黒猫は風のように走り去った。
「・・・・・・。」
ずり落ちかけたルーブライトの体をよいしょ、と抱え直して、ジルノートは鉛のようなため息をひとつ。
「悪魔、ねぇ・・・。」
・・・・ああは言ったものの、早くも心がくじけているジルノートだった。
けれど、なんというか・・・・。
今日、初めて、信じてもいなかった悪魔と対峙して。
その精神に触れて。
確かに、今までに触れたことのないような複雑な構造で、獰猛で、攻撃的だった。
でも、それだけだ。
やっぱり、心は心で、理解できなくてもはかり知れなくても、触れられて、読み取れて、操作できることには、ジルノートにとって変わりない。
だから。
「まあ、大丈夫かな・・・・?」
それよりも。
背中にかかる圧力。感じる体温。
家族に殺される少年。家族を殺した男。
救いとは、なんだろう。
悪魔だって救いを求めているというなら、人間だって当然そうだ。
なら、救い、とは?
偽りでもまやかしでもなく、彼らを「救う」ことができる。
そんな存在がいるとするなら。
それはまさしく、神と呼べる存在ではないだろうか。
それなら、手放しで信奉しよう。いっそひれ伏してもいい。
本当にそんなモノが在るというのなら。
「あー、もう、重いな・・・・。」
やっぱり、クリスティアは帰すべきじゃなかったと、更に後悔しつつ、少年をおんぶしたジルノートは家路を急ぐ。
もう、今日は本当に疲れた。
帰ったら、すぐに事務所を休業にして今日は休もう。
本当はすぐに寝たいところだけれど、どうもそれはできそうにない。
太陽は、まだ南天の空に輝いている。
どこか遠くで、猫の啼く声が聞こえた。
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