例えばこんな風に疾走するようなことが、果たして今までにあっただろうかと考えると

ないかもしれないし、これからもないだろうと思っていたのかもしれない。



体育の授業の短距離走にしろ中距離走にしろ長距離走にしろ、それほど大真面目に、それこそ逼迫された極限な心理状態でというなら更にない。

そういえば短距離走ならあれはまさに全力疾走ではあるけれども、既に駆けてきた距離は短距離とは言いがたい。短距離走とそれ以上では筋肉の使い方、呼吸法からして違う。

短距離走の勢いで長距離は走れないと、まあそういうことだが、シードルだって詳しいことは知らないのだ。興味を覚えたことがなかった。

少なくとも運動に関しては凡人、下手をすればそれ以下なのだから、概ねその解釈は間違っていないと判断できる。

短距離走といえば無呼吸状態での運動だが、今は荒い呼吸が思考や動作、全てを妨げているようにも感じられる。呼吸ばかりではない。跳ね上がり、全身を打つ心拍もやはりこの・・・逃走劇において、酷く邪魔だった。



後ろの気配を気にし、進行方向にある障害物に注意を払い、全く忙しいことといったらなかった。

相手は大きな体で愚鈍そうではあったものの、それでも絶えず不安や恐怖はついて回った。



ひとりきりになったシードルの元に、それは現れたのだった。

それは何の救いにも思えなかった。せめて人型なら幾分かマシだったとも思えるのだけれど、生憎とそれは大きな化け物だった。空虚な目。狡猾そうな笑いを浮かべて、あろうことか人語を話した。

力があり、かつ知恵も持つモンスターほど厄介なものはないとは周知のことだ。

その上、その化け物は・・・・シードルに誘惑をもたらした。

力が欲しくはないか、と。

陥れられるのだと直感した。

何者も信じられないとふて腐れていた時ではあったものの、その直感は信じようと思った。

この得体の知れない化け物を信じるよりずっとマシだ。



だから、今逃げている。

その他全ての選択肢を奪われ、また放棄した結果だった。

奪われるくらいなら隠してしまえ、と、自ら守り切る自信も術もない弱者の発想だ。そして、隠す場所を知らないのだ。救いようがない。



方向なんてわからない。場所ならなおさらだ。

前触れもなく、いや、あったとしてもそれに気づく間もなく、急にここに送られた。

初めから迷っているのだから、迷う心配なんて要らない。既にこれ以上ないまでに迷っているのだから。

無い物を失う心配は要らない。

ただ、恐れていることは、行き詰まるということに他ならない。逃げ道を失い、じりじりと追い詰められるなんてことは恐怖でしかない。

やはり足りない。必要なものが何一つ。

いやもうそんなことはどうだっていい。

今現在最も優先すべき情報は、「果たしてあの化け物はまだ後を追ってきているかどうか」これに限る。純粋に生死に直結するといっても過言ではない、かもしれない。少なくとも、体力の切れ目が命の切れ目、なんて状況から、一刻も早く抜け出したいというのが本音だ。

振り返って確認したいのは山々だけれど、これだけ疾走して、なおかつこんな視界も足場も悪い場所でそれを無事に成し遂げる器用さは多分、持ち合わせていないだろう。これ以上状況が悪化するのは避けたいところだ。

状況の悪化はともかく、状況の好転の糸口さえつかめないのは、とにもかくにも厄介だった。



視界も足場も悪いという場所は大体が身を隠すのに都合がいい場所ともいえる。だからそれにのっとって木陰に身を隠すなりして一度冷静に考えてみるのもいいかもしれないが。

しかしそれが頭をかすめたとき、シードルはそれを諦めたのだった。

・・・一度立ち止まれば、もう動けなくなるだろうと思ったからだ。それほどまでに疲弊し、追い詰められている。勢いを止められない。

酸素の足りない脳でいろんなことを考える。その大半がどうでもいい、役に立たないことだった。

走馬灯とも違う、それは逃避のような行動だったかもしれない。辛うじて思考のまだ冷静な部分が幾度となくシードルを現実へと引き戻すのだけれども、思考はすぐにぼやけて散って、あらぬ方向へ飛んでいった。



そうやって何回目の逃避に入ったとき、突如思考がぶつりと途切れた。感覚だけが体を支配し、気がつけば防衛動作もままならぬうちに、地面へとしたたかに体をぶつけていた。

真っ白な思考を呼び戻して、それが自分の過失であったことを思い出す。

早い話が前方不注意だった。いや、注意はしていたが注意しかしていなかったというべきか。

何かを踏み付けてバランスを崩して、こけた。

単純にそういうことだ。

何故走っていたのか、ということも忘れて痛みに悶える。そのとき、足首に鋭い痛みを感じて思わず悲鳴を上げ、振り返った。

それは蛇だった。そして、自分が踏みつけたのがそれだと思い出した。

怒りに任せて食い込むその牙が痛い。引き剥がそうと思い、けれどそれを直に触れるのもはばかられて、シードルは魔法をけしかける。

そして、魔法を放った瞬間に、何故さっきまであれほどに走っていたのかを思い出した。

剥がれ落ちる蛇の存在をすぐに頭から消し去って、ただちに起き上がり、また走り出す。

溜まった疲労と、かまれた傷でうまく足が動かなかった。



そういえば、と、走りながら考える。

蛇の中には毒のある種類がいなかっただろうか。

事前知識として、毒がある蛇より毒のない蛇の方が圧倒的に多いとか、三角形の頭をしているのが毒蛇だとか、毒を注入する為の、とりわけ大きく鋭い牙があるのが毒蛇だとか、当てになるんだかならないんだかわからない曖昧なうろ覚えの知識を引っ張り出す。

放って置けば体中に毒が回って、神経が破壊されて呼吸困難で死んだり、細胞を破壊されてショック死したりするんだろうなとか思いながら、自分は美属性だから特に毒が効きやすいとかあるんだろうか、とか、そういえば、美人が毒蛇にかまれて死ぬという話は神話なり史実なりでよくあるなとか考える。エウリュディケしかり、クレオパトラもそうだった。

でもそれはただそれだけのことで、だからといってなんでもない。



気がつけばやはり思考は逃避に走っているのだった。それだけで確かに気は楽になっているのだけれど。

そういえばさっき転んだとき、結果的に後ろを振り向くことになったけれど、追ってくる気配はなかったように思う。これはそれほど冷静な判断ではないけれど・・・。

足は痛むし、疲れたし、士気はどんどん低下していく。

速度は落ちていって、自然足は止まる。そして、ゆっくりと地面へ倒れこんだ。

もう足は動かなかった。

激しい呼吸に体は大きく上下する。

「見る」ことを放棄して、焦点は外れて視界が大きくぶれる。

投げ出されたようになっている足はどくり、どくりと鈍く痛む。感覚は痺れて曖昧になっているけれども、かまれた傷ははっきりと痛かった。

(もー、動かない)

吹っ切れたように瞳を閉じると、火照った体をなでるようにさらさらと風が流れていく。それを感じる。

耳鳴りが酷く響いたけれども、それが別段不快でもなかったから、シードルは全身をじっとりと覆う、重い疲労感に体を任せてみた。

それで、比較的近距離から、耳鳴りに混じって聞こえた草を掻き分けるような、踏みしめるような音を聞いたときもシードルはぴくりともせず、微塵も気を払わなかった。それが比較的軽い音だったのも理由の一つだ。

しかし。

「・・・シードル・・・?」

その声を、その言葉を聞くにつけてシードルははっと目を開き、重い頭を持ち上げる。

「オリーブ・・・。」

上半身を起こしたシードルに、オリーブは屈みこんだ。酷く心配そうな、青ざめた表情。

シードルは慌てて笑いを繕う。

「なんてことないよ。走り疲れただけ。オリーブは?」

肘をついて起こした上半身を支えて、笑いながら首をくるりと傾げてみせると、オリーブは少し安心したようにふうと息をついた。

「私は大丈夫・・・。ただ、道がわからなくて」

「そっか・・・。

・・・・何も追ってきてないよね?」

「・・・え?」

オリーブは困惑したように周囲を、用心深く見渡した。それから再びシードルを見る。更に困惑した風に。

「うん・・・・。・・・・?

 !!シードル、足、どうしたの?」

振り返って見てみると、血が滲んでいるのが、わかった。

「あぁ・・・。ちょっと、蛇にかまれちゃって。」

「蛇?」

「うん。」

そう言って起こした体をもう一度伏せて、シードルはぐったりと目を閉じる。

さっきまで過激な運動をしていたせいで、体が火照ってしょうがない。呼吸はだいぶ落ち着いてきたとはいえ。

それだけ、毒が回るのも早いだろう。結果が早くわかって好都合だ。

「ちょっと・・・眠るね。何かあったら起こして。」

目も開けないままそう言ってそれきりシードルは黙り込む。

オリーブは何も言ってこないで、ただシードルの傍に座るような気配だけを感じた。

上昇した体温が、下降を始める。風がそれを助長して、皮膚が冷たいような感覚があった。

眠ったら無事に起きれるかなぁなんて呑気に考えながら静かにまどろむ。

そういえば今ここは物陰とはいえ明るいけれど、ここに来る前のヴァレンシア海岸ではもうすっかり夜だったなと、それを考えている間に意識はフェードアウトしていった。



数時間後、何の問題もなく目覚めたとき、オリーブは太い木の幹に体を預けて眠っていた。

オリーブも疲れてたんだ、と少し申し訳なく思っていると、新たに加わっているものを見つける。

「カベルネー。」

自分が眠っている間にオリーブと再会を果たしていたんだろう、と見当をつける。安堵の笑いと共にその名を呼ぶと、カベルネは静かに人差し指を口に当てて「静かに」というポーズをした。

それに意味もなく体を竦めたあとで、シードルは体を起こそうと両手をつく。

「カベルネは寝ないの?」

「平気だヌ〜」

小声で訊ねると平然とした返事がきた。強がりにも見えない、本当に平気そうなカベルネに感心する。



オリーブが、起きたら。



(どうしようかな)



だいぶ落ち着きと余裕を取り戻してシードルは伸びをする。

どれだけ眠ったかは知らないけれど、空はまだ随分明るかった。

(夜がないのかな?)

そんなことないか、と考えながら、辺りをじっくり検分するようにして眺め回す。

自然豊かな感じだ。とにかく緑が多い。

問題は、近隣に文明が存在するか否か。上手くいけばそこで情報を得ることが出来る。

それにやはり生きているのだからお腹もすくわけであって、そしてサバイバルな展開は遠慮したい。

あとでゆっくり話し合おうか。

そう思っていると、オリーブが小さく身じろぎして、ゆっくり開いたまぶたでぱちぱちと瞬きをする。

「おはよう。」

シードルはそう言って屈託なく笑った。





















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・独り言・

それから間もなくしてキャンディと合流します。
エニグマに光のプレーンに飛ばされたあとの捏造です。
取り敢えずパペットのカベルネは体が頑丈という設定(むしろ妄想)
それにしてもこのシードルはカシスの後を追う気ゼロのようです(笑)
ちなみに毒蛇に関する知識はうろ覚えです
呼吸困難で死ぬというのは覚えてたんですけど、ショック死するかどうかは知りません。
筋細胞やら血管やら破壊されるということは覚えてるんですけど、そこからどう死ぬかまでは。
前者が神経毒、後者が出血毒というらしくて、後者は相当痛いそうですよ。
子供向けの学習漫画で得た知識なので(昔だし)間違っているかもしれません。








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